中国ドラマ「老中医」のために知っておきたい「日中の中医学史」

中国ドラマ「老中医」のために知っておきたい「日中の中医学史」

現在、中国では中医学が沸いております! 「中医学ブーム」が起きているのです! 2016年には屠呦呦教授がノーベル賞を受賞され、中国伝統医学は全世界に大きな影響を与えました。同時に中国国内においても国家戦略として中医学の伝統を継承し、科学で実証し、そして世界の人々に貢献することを目標に、政治の分野、医療の分野、研究の分野、国際交流の分野で非常に多くの成果を得ております。

2018年にはWHO(世界保健機構)が中国伝統医学をICD(国際疾病分類)に追加し、中医学は世界をも動かす事態となっております。そんな中、とうとう芸能の分野においても中医学が登場しました。それが今回のドラマ「老中医」なのです。そして何より幸栄なのは、世界的に注目を集める中医学のドラマに、上海中医薬大学の日本人留学生2名がエキストラとして出演されておられることです。2月21日から第1話が放映され、出演するのは20、21話だそうなので、大変待ち遠しいです。

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日本の中医学、鍼灸、漢方を専門とされる先生方、学生方、患者さん方、そして今後伝統医学を学びたいとお考えの方には必ず見ていただきたい、韓国の許俊や李済馬に次ぐ、今、中国で大人気のドラマです!

そんな輝かしい中医学も、実は約100年前に政府から「中医廃止案」が出され、絶滅の危機にあったのです。20世紀初期、民国時代の上海では、中医学の存続をかけて、命をかけて中医学を守った中医師たちがおられ、今回の舞台となっているのです。主人公は“孟河医派”を伝承した名医である翁泉海。ドラマの内容はお楽しみということで、見るにあたり必要な知識をご紹介させていただきます。

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孟河医派とはどんな流派?

起源は張仲景の「傷寒論」と同じ東漢時代に遡り、江蘇省武進長江にある孟河という街で発生し、歴代には宋の時代の許淑微、明の時代の王肯堂など名医がおり、清の時代にはより学術が深まり、特に孟河流派の四大医家である費伯雄、馬培之、巢渭芳、丁甘仁を中心とし基礎が確立されました。費伯雄の孫である費縄甫は危篤、大病、奇病、救急病を得意とし、上海で有名だったそうです。馬培之は瘍科(外科医)でしたが、1880年北京で慈溪太後の治療にあたり、内科で有名になったそうです。馬培之は多くの医師を育て、巢渭芳、丁甘仁も彼の学生です。丁甘仁は上海の一大名医で、中医学院も設立し、多くの名医を育てました。著書である《丁甘仁医案》は現代においても多くの医師が学んでおります。彼の学生には上海の名医である章次公がおり、章次公の学生には名老中医の朱良春がおられます。

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本場中国でも中医廃止案があった?

日本の明治政府同様、西洋の文化が入って来るにつれて伝統医学の立場が弱くなり、廃止しようという動きが出てきました。日本では1875年に西洋7科の制度を定め、この試験に合格したものでなければ医師となることができないとしたのです。これによって医師はすべて西洋医学の医師でなければならず、漢方医学はその根源を途絶えされてしまったのです。

1879年これに挽回しようと立ち上がったのが、東京温知会でした。山田業広、森立之、浅田宗伯、飯田隆安、高橋宗翰、山本高明らは温知社を結成し、機関誌「温知医談」を発行して、漢方医術の存続を企図し、さらに後進指導の計画を樹立しました。1880年浅井国幹は官の許可を得て、名古屋に愛知専門皇漢医学学校を建て、温知者員に東京温知社を中心に大同団結して漢方医学百年計画を樹立すべきだと主張しました。温知社全国大会には各地代表が集まり、200名を超え、温知医学校も設立しました。

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明治15年には浅井国幹の奔走により、東京温知社と熊本春雨社、京都賛育社の連合会が成立し、存続運動を進めることになりました。しかし、存続請願もかなわず、1983年には医師免許規則は改正され、漢洋理論闘争に敗れました。1894年には理論がだめなら治療効果で実証しようと、温知医院を設置し漢洋治療闘争に入りました。東京、鳥山、須賀川など温知分院をはじめ、各地に済生病院、博愛病院、博済病院、集誠病院など30件近くの漢医病院が設立されました。しかし、幹部が相次いで没し、温知社は解散に至りました。回天医会と熊本春雨社からそれぞれ「継興医報」、「医心」を発刊されたものの、1895年医師免許改正法案は二十七票の差で否決され、5年に渡る議会闘争は終わり、漢方存続運動は敗北し、漢方暗黒時代を迎えるのでした。

中国では1929年、国民党政府行政院長が中医の廃止を主張し、南京国民政府衛生部が同意、中央第一次衛生委員会議においても廃止案が通ってしまったのです。日本同様、これに反対し、政府に訴えるだけでなく、治療効果で実証して見せたのです。その際に湯本求真の「皇漢医学」を掲げ中医の科学性を訴えたそうです。

当時、湯本求真が有名だったことを証明する物語があり、清水藤太郎が北京で名医である施今墨の診療にかかる際、湯本求真の弟子であると名刺に書き添えて出したら、多くの患者さんが待つ中、すぐに診察室に通してくれたそうです。施今墨自身も華北中医請願団を組織し、南京へ「中医廃止案」を主張した汪精衛を訪ねたそうです。その際、汪精衛の義理の母は重度の痢疾にかかり、施今墨は一診で完治させ、中医の治療効果を実証し、1936年には無事に中医は認められるようになりました。

満州国政府は1940年、漢方廃止か存続かの選択に迫られ、日・満・鮮の代表会議を開き、満州からは岡西為人、朝鮮からは杉原徳行、東京からは龍野一雄および矢数道明が参加し、存続再教育、試験制度、国立研究所を設けて、新しい発展策が決議されました。

その後、フランスでは鍼術の研究をはじめ、ドイツにも影響しました。日本の鍼灸も積極的に取り入れ、1955年には柳谷素霊がフランス国際鍼灸会に招聘され、フランス、ベルギー、西ドイツの学会で日本の古典鍼灸術を紹介し、フランス・パリ鍼学会顧問に就任されたのです。1976年にはWHOが東洋医学を採択し、現在では多くの国で法律の整備がなされ、中国伝統医学が実践されているのです。

日中両国で起こった伝統医学と西洋医学の争いはその時代で終わったわけではありません。一部で今もなお残ってるのです。特に日本では漢方薬を保険適応外とする動きや、中国でも中医を批判する声も少なくありません。そんな中、私たちは争うのではなく、中西医学両方の知識を吸収し、より良い医療を目指す必要があります。このドラマを通して、中医学がどのような歴史を経て今に至るのかを知り、私たちが中医学と出会い、専門とでき、医学の発展に欠かせない平和な時代に生まれてきたことに感謝するとともに、そして時代の任務として中医学の発展に貢献する必要があると思います。